おそらく、多くの人が「京都は、被災しなかった」と思っているのではないでしょうか。太平洋戦争において、京都は原子爆弾の標的になるものの、歴史的建造物が多数あるため、回避された――。こんな話を京都の子どもたちは、聞いて育ったように思います。だから、僕も京都は、戦争の被害を受けていないものとばかり思っていた。原子爆弾はもちろん、普通の爆弾も落ちず、誰も死んだりしなかったと。でも違ったんです。
そんなことが、知恵光院通と下長者町通の交差点に面した「辰巳公園」にある「空爆被災を記録する碑」に記録されています。碑の文章を書き起してみましょう。
昭和二十年(一九四五年)六月二十六日昼前、低い雲の上空に敵機B29の爆音が近づき、突然に轟然たる爆発音とともにすさまじい土煙が上がった。この時の被爆は上長者町通より南は下立売通、東は大宮通、西は浄福寺通に至る方四百メートルの地域で、当時の報告には五十キロ爆弾七発とも五発とも言われた。
報道管制のため、その状況は、多くの市民の知るところとならなかったが、西陣警察署の記録によると
一、死傷者 即死 四十三人、重傷十三人
軽傷 五十三人 計百九人
《中略》であった。ちなみにこの辰巳公園も被災地跡にできたものである。
第二次大戦(大東亜戦争)において京都市は非戦災都市と言われてきたが、東山区馬町と太秦の三菱工場および当地域が爆撃をうけたものであり、当地域が最も大きな犠牲者を出したのである。
ここに戦後六十年を期して、この悲惨な空爆の事実を伝えるためこの碑を建立して後世への記録と留める。
平成十七年八月
空爆被災を記録する碑の建立委員会
こんなどこにでもある公園に爆弾が落ちて、43人もの人が亡くなっていたんですね。この碑の文章にも《京都市は非戦災都市と言われてきた》とある。やはりそうだったんだ。《報道管制のため、その状況は、多くの市民の知るところとならなかった》こういう背景があったわけだけど、その事実が平成17年に建てられたこの碑によって明らかになる。なんというか近代史って、本当に、今でも新たな事実がいろいろ発見される分野。歴史は固定された史実と思いがちだけど、とんでもない。今でもアップデートされているんです。
この碑の存在を、僕は岩波ジュニア新書の『戦争のなかの京都』という本で知りました。京都の近代史が知りたい人は、一読されるといいかもしれません。
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