おかべたかしの編集記

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『やさしさをまとった殲滅の時代』(書評2014 1/50)

「ずんずん調査」でお馴染みの堀井憲一郎さんが「00年代の社会にはどういう変化が起こったのか」を振り返る本書。金言満載で、ぜひ多くの人に勧めたい好著でした。

 帯には、こんな文句があります。
《90年代末、そこにはまだアマゾンもiPodもグーグルもウィキペディアもなかった》

そう、今では普通にそこにあるものの数々も、ほんの十数年前にはなかった。それがなくても、さほど困ったと思っていなかったはずの十数年前の僕たちだけれども、今、僕たちはそれがないと、とても困るようになった。それは進化したようにも思うけれど、一方では退化のようにも思える。そして、その背景には、いろんなものがなくなってしまったと、堀井さんは指摘する。

《人知れず、いろんなものがなくなっていく。しかも、なくなっているときの悲哀も惜別も存在しない。なんだかよくわからないが、それまでの「小さい楽しみ」がことごとくつぶされていっているような感じがしてしまう。すべてなくしてから、気がつく。あんなにあった「小さい楽しみ」は、すべて何かに奪い取られてしまったのだろうか。00年代の変転について、すこし、眺めてみたい》

本書の冒頭には、このように書かれており、その「なくなったもの」がいくつか指摘されていた。そのひとつが、興行の入口にいる怪しい雰囲気の「フダ屋」。今でもたまに見かけるが、昔は今とは比較にならないほど多かった。もちろんフダ屋はいないほうがいい。でも、その存在は興行というものが生来持っている「あやしさ」を伝える装置でもあった。堀井さんは、ママンの論理がこの十年に大きく幅をきかすようになったと説き、《00年代は「見た目のクリーンさが整えられ、そのぶん生活危険度が増していく」時代でもあった》と書いている。

《洗練された都市では、空が青く、建物が清潔で、そして男子はやることがないのだ。しかたがない》

ふむ。

その他、十年前にはなかったものの、いくつかをうまく論じている。たとえばライトノベル

ライトノベルだけを読んでいてはまずいというのは、「僕が僕であるだけで、世界は僕を必要としてくれる」なんてことはまず絶対にありえないし、「美少女が意味なく友人になってくれる」ということも、今生では起こりえないとわかっているからである。でも、抜けられない。世界はぬるく、ぬるま湯のように僕を囲ってくれたらいいのに、という心持ちを見事に受け入れてくれている。そういう世界である》

また例えば「ロストジェネレーション」という言葉。

《就職がむずかしかっただけの世代をして、ロストジェネレーションと呼ぶ、その大言壮語さが、みっともないのである。「就職できないから、世界が破滅するぞ」と言っているようで、聞いていて、恥ずかしい》

みんなが大学に行く時代性も、こういった部分の欠落を指摘する。

《「社会で直接役に立たないことを学ぶためにわざわざ大学というものは建学されたのだ。社会に役立ちたいならすぐに現場に行って、現場で覚えろ」とこれは昭和のむかしには何となく教えられていたことである。いやこれだって、そういうきちんとした言葉で言ってもらったわけではなく、おとなの端々のコメントから、自分でなんとなく構築したセリフでしかない。でも、いまはそういうセリフを構築するためのヒントさえ、与えられていないとおもう。大学なんてそもそも無駄である、ときちんと言うべきである。「ただ、無駄のなかから千に一つか万に一つ、おそろしく有効なものが生まれる。それは無駄の先にしか生まれない。だから無駄も少しは残しておかなければいけない」というのが、本来、大学教育に関してきちんと説明するべき言葉である。でも、しない》

他にも、いろいろ頷くところが多い本書。誰もが歴史を振り返る重要性を説きながら、間近の十年はあまり振り返らない。まるでこの十年ではあまり変化がないようだが、そこに視線を落としてみると大きな変化があったと気付かせてくれる。これからの未来を見据える上でも貴重な一冊だと思うのです。